2012年9月27日 (木)

矢切の渡し

矢切の渡し
矢切の渡し
今日の東京新聞夕刊トップに矢切の渡しの乗船料が\100から\200に値上げになるという記事が出ている。


矢切に住んでいたのは77年頃だから、もう35年も前になる。


有名な矢切の渡しと言っても売店一つある訳でもなく、近くの野菊の墓文学碑も訪れる人もほとんど無くて閑散としていた。


何か時間の流れが止まっているような場所だったという記憶がある。


ともあれ渡しが無くなる訳ではないのだから良かった。

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2012年8月26日 (日)

『みなみminami(南)』の語源について

方角を表す四つの名詞のうち『ひがし(東、古形ひむかし)』『にし(西)』『きた(北)』については語源が明らかになっているが、『みなみminami(南)』だけは語源が未詳であるとされている。


英語のsouthはsunが語源とされているので、多くの人が『みなみ』を太陽と結びつけようとしてうまく行かなかったようだ。


だがこれは発想をちょっと変えれば良いのではないか。


『きた』の語源が判っているのだから『みなみ』はその反対ではないかと考えてみた。


『きた』は『きたなし(穢し)』の語幹であり「不浄な方角」の意味とされている。
それならば『みなみ』は「神聖な方角」の意味ではないかと考えて分析してみると、まさにそのような意味が浮かび上がって来た。


初めの『み』は甲類なので、『みや(宮、神家)』『みこし(神輿)』『わたつみ(海神)』等の『み』すなわち「神」の意と考えられる。


後半の『なみ』は、現代では死語になっているが上代には使われていた動詞『なむ』の連用名詞形だと思う。


『なむ』には母音交替形『のむ』という語形もあり意味は同じで「祈る」こと。
この『のむ』の連用名詞形『のみ』が借用語彙としてアイヌ語に入り『カムイノミ』という複合語になって残っている。


従って『み』は神、『なみ』は祈ることで、『みなみ』は「神に祈ること」となるが、方角を表す語彙なのでこの場合は「神に祈りを捧げる方角」という意味だろう。

古代日本人が南を「神に祈りを捧げる方角」としていた事を太陽神信仰と結びつける人も居るかも知れないが、私は太陽神信仰とは繋がらないだろうと思う。


『みなみ』の『み』は神を意味するが、神を意味する『み』には蛇という意味もあり、南方系の蛇神信仰に繋がっていると思う。


『みなみ』を「神に祈りを捧げる方角」すなわち神聖な方角としたのは、蛇神信仰を日本に持ち込んだ人たちの故郷が南の方角だったからではないかと思う。

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2012年6月 4日 (月)

在特会の街宣と暴行の動画に関して

http://b.hatena.ne.jp/entrymobile/96505966

某芸能人の母親が生活保護を受けていた件に関して在特会が新宿駅南口前で街宣活動を行い、これに抗議した老人に暴行したという動画がYouTubeに投稿されてはてなブックマークが多数付いている。


これを見て奇異に感じたのはカメラがあたかもその後に起きる事態を予測していたかのように老人の背後から撮っていて、カメラの前で事態が展開している事だ。
撮影していたら不測の事態が起きたので急遽そちらにカメラを向けたという感じではない。


以前に在特会関係の動画でこんなのがあった。
「在特会が障害者を半殺しにしています」という動画なのだが、見ると車椅子に乗った「障害者」が自ら桜井誠に向って突っ込んで行って「やめろ、朝鮮人」などと言っている。
在特会のメンバーが「障害者」を包囲して「お前こそ朝鮮人だろ」と言い、お互いに相手を「朝鮮人」と罵倒するという漫才みたいな展開のあと「障害者」は引き上げて行った。
車椅子を掴んで揺すったりはしていたが暴行というのは無かった。

にもかかわらずキャプションでは「障害者は在特会に殺されかけた」と煽り、なおかつ在特会を「正体は極悪チョン」と攻撃していた。

明らかに撮影者と「障害者」はグルで、在特会攻撃の為に故意にやったという印象だった。

この撮影者と「障害者」って在特会以下だろうと思った。


今回の動画を見て、あの「障害者」の動画を思い出したのでYouTubeのコメントを読んでみたら、撮影者が「よくヤラセとわかったな」などと書いていた。しかしその後で一転してヤラセを否定したり、どうもこの撮影者の書いてる事は支離滅裂という印象だ。

在特会の主張自体は支持するとも書いているので、撮影者は左翼やリベラルではないようだ。
しかし一方で在特会を「極悪チョン」呼ばわりしている訳でも無いので「障害者」の動画を撮ったグループとの関連は無さそうだ。

どうももっと単純に、動画を撮っているうちインパクトのある映像が欲しくなったので老人に挑発を依頼したというあたりが真相に近いのではないかと思う。


それに乗せられてしまう在特会の愚かさは言うまでもない。

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2012年2月19日 (日)

『かぐや姫(かくや姫)』の語源

『かぐや姫』
(古くは『かくや姫』だったとする説もある。元々この物語が書かれた時代の表記に濁点は無く、濁音か清音かは読む側が判断しながら読んでいた。このため濁音か清音かを巡って学者間で見解が分かれるケースは珍しくない)
は平安時代初期頃に書かれたとされる「竹取物語」のヒロインで正確には『なよ竹のかぐや姫』。


この名前は記紀に登場する『木の花の咲くや姫』を連想させるので、かぐや姫伝説の起源は記紀説話と同等あるいはそれ以上に古いと思われる。


竹取物語に登場する人物名に天武朝に実在した人物名があるので、かぐや姫伝説の起源を天武朝以降と見る人も居るが、人物名は後から差し替えられる事もあるので決め手にはならない。
それよりも『かぐや姫』の名の中に文献に残っていない古い語彙が含まれている点から見て「原かぐや姫伝説」の成立は天武朝よりはるかに古い時代だろうと私は推定する。


『なよ竹のかぐや姫』の場合、『かぐや』の意味が難解とされる。
しかし『木の花の咲くや姫』と比較すると、『かぐや』に相当するのが『咲くや』であり、『咲く』が動詞『や』が間投助詞であるから、『かぐ』(or『かく』)が動詞『や』は間投助詞と推定できる。


問題は『かぐ』or『かく』という動詞の中に『かぐや姫』の語源に相応しい語彙が見当たらないという事だ。
『嗅ぐ』『書く(描く)』『掻く』『欠く』…どれも『かぐや姫』の語源としてピッタリしない。


従ってこの『かぐ』or『かく』という動詞は文献以前に死語になってしまった古い動詞と考えざるを得ない。


けれども手がかりはある。『ぐ』or『く』は活用語尾だから『かぐ』or『かく』の意味を決めるのは語幹の『か』だ。


現在でも『ふつか』『みっか』などの助数詞として使われる『か』は元は新羅語由来もしくは和語・新羅語の共通祖語由来の語彙で「太陽」を意味したと金沢庄三郎は述べている。


『かかやく』『かがよふ』『ひかる』のように太陽あるいは光に関連する語彙に『か』が頻出する点から見ても金沢庄三郎説は首肯できる。


従って私は『かぐ』or『かく』の『か』は太陽を意味し、『かぐ』もしくは『かく』とは「光り輝く」の意味だったろうと考え『かぐや姫』とは「光り輝く姫君」の意味だったと推定する。

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2012年2月10日 (金)

島原の子守唄は本当に宮崎康平の作品か?

よく知られた子守唄の一つである『島原の子守唄』は『まぼろしの邪馬台国』の作者としても知られる故宮崎康平が作ったという事になっている。


JASRACに著作権登録されているのは確かに宮崎康平なのだが、本当に宮崎康平が『島原の子守唄』の作者かどうか疑問点がいろいろある。


①故松永伍一の「日本の子守唄」には『島原の子守唄』について「地元島原では明治の末頃から歌われていた」と書かれている。
明治の末には宮崎康平は生まれてもいない。


②宮崎康平は初め作詞のみ著作権登録し、数年後に作曲も著作権登録している。
後から実は作曲も自分だったと気づいたなんてそんな馬鹿な事があるだろうか。


③ある人が「おろろんばい」とはどんな意味ですかと宮崎康平に尋ねたところ「解りません」と答えたという。


④この曲のメロディーが山梨の民謡に酷似しているとの指摘があるが、宮崎康平と山梨の接点が無い。

この曲を著作権登録した当時の宮崎康平は失明して会社は解雇され妻には逃げられ困窮していたようだ。
そこでこの伝承曲を自分の作品として登録する事を本人が思いついたのか周囲が入れ知恵したのだろう。
作曲の登録が遅れたのは楽譜が書けなかったためではないか。


同情すべき点はあるにしても、やはりそれはやってはいけない事だろうと思う。

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2011年10月 6日 (木)

多数決=民主主義という誤解

確か1980年代のことだから30年も前のことだが、こんな事があった。


ある障害児の親が我が子を地域の普通学級で学ばせたいと望んだ。
教委は取り敢えず週一日だけ地域の普通学級に行く事を認め、様子を見ようということになった。
地域の学校もこれを了承し、担任も温かく迎え入れた。


ところが、このクラスの子の親達が受け入れ反対運動を起こした。
反対運動を起こした親達の言い分はこうだった。「障害児を普通学級で学ばせたいと思うのも親のエゴ。私達が障害児には来て欲しくないと思うのも親のエゴ。同じエゴなら数の多い私達の利益が優先されるのが民主主義というものでしょう」。


民主主義ってそんなものだったっけ?
民主主義の基本は話し合いであり、マイノリティの権利に配慮するのも民主主義だ。
多数決なんてのは話し合いで解決できない時の最後の手段であって、話し合いも何もせずにいきなり多数決で決めようとするのはむしろ民主主義の否定だと思う。

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2011年9月13日 (火)

日本の少数民族ウィルタについて③

日本の少数民族ウィルタについて③
日本の少数民族ウィルタについて③
日本の少数民族ウィルタについて③
ウィルタとニヴフの画像を貼ります。


初めの1枚がニヴフ、後の2枚がウィルタの民族衣装を着た女性です。

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2011年9月12日 (月)

日本の少数民族ウィルタについて②

8月28日に書いたことにいくつか追加しておきます。


①小説家深田久弥の作品に『オロッコの娘』という短編小説があって、ウィルタの娘とニヴフの若者との淡い恋を描いたものらしい。
ただ、この作品の発表当時深田久弥と同棲していた北畠八穂が後に本当の作者は自分だと語っていて、それは事実らしい。


②北海道のオホーツク海沿岸地方にはモヨロ貝塚などの遺跡を残した考古学ではオホーツク人と呼ばれる非アイヌ人がかつて住んでいたことが知られている。


オホーツク人はアイヌのユカル(ユーカラ)に『レプンクル』の名で出て来る民族と同一と考えられるが、アイヌは長い困難な戦いの末にレプンクルに勝利したと伝えている。


オホーツク人の正体については今なお多様な説があるが、近年はオホーツク人は樺太からやって来たニヴフとの見方が有力になっている。


③『ウィルタ』『ニヴフ』は共にそれぞれの言語で人間を意味する言葉だが、『ニヴフ』を『ニヴヒ』と書いているものもある。『ニヴヒ』が単数『ニヴフ』は複数という説もあるが、『ニヴフ』と同じ意味で『ニヴヒ』を使う人もいる。

また『ニヴフ』は沿海州辺りでの言い方で、南樺太では『ニクブン』と言っていたようだ。「ゲンダーヌ」でも終始『ニクブン』と書かれている。


④言語学ではウィルタ語はアルタイ諸語のトゥングース系に属し、ニヴフ語は古アジア諸語に属する。

アルタイ諸語は(1)モンゴル系(2)チュルク系(3)トゥングース系に分けられるが、(1)モンゴル系に属するのはモンゴル語・ブリヤート語・カルムイク語(2)チュルク系に属するのはトルコ語・アゼルバイジャン語・ウイグル語・クリミアタタール語等、そして(3)トゥングース系に属するのはエヴェンキ語(旧トゥングース語)・満州語(女真語)・エヴェン語・ナナイ語・ウデへ語・オロチョン語・ウィルタ語・シボ語等だが、日本語・朝鮮語も文法構造の類似等からアルタイ諸語トゥングース系に分類される事が多い。

ただ文法構造や発音体系の類似にもかかわらず、基礎語彙に対応する語彙が少ないことから、日本語・朝鮮語は純粋のトゥングース系言語ではなく南方系との混合言語と見られる。

日本語の場合、基礎語彙にはクメール語やマレー語との類似が認められる。


ニヴフ語が属する古アジア諸語とは、アルタイ諸語の場合とは異なり、共通性の高い言語グループに対する呼び名ではなく、北東アジアの言語の中で言語系統が不明な言語を取り敢えずまとめて古アジア諸語と呼んでいるに過ぎないので、同じ古アジア諸語だから同系統の言語という訳ではない。

古アジア諸語に属する言語としてはチュクチ語・コリヤーク語・イテリメン語(カムチャダール語)・ユカギール語・ケット語・ニヴフ語・アイヌ語・クリル語・エスキモー〜アリュート語等。
このうちチュクチ語・コリヤーク語・イテリメン語は相互に近縁関係にあることが判っている。

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2011年8月28日 (日)

日本の少数民族ウィルタについて

はてなブックマークでウィルタ民族について検索したら、2ちゃんのこんなスレが出て来た。


http://unkar.org/r/geo/1141144110


内容があまりにも酷いので、一応はてなにも批判のコメントを書いたけど、はてなブックマークは100字までしか書けないのでもう少し詳しく書きたい。


批判を書く前にウィルタ民族について概略触れると、ウィルタはサハリン(樺太)の先住民。
サハリン及び沿海州のアムール川河口付近を生活領域として古来トナカイと共に移動しながら生活して来た遊牧民。


日露戦争後に日本が南樺太をロシアから割譲されたので、北緯50度線を境に北がロシア領(ロシア革命後はソ連領)南が
日本領に分断された。


しかし日露間の取り決めにより、遊牧民族ウィルタと狩猟民族ニヴフは自由に移動しながら生活して来た生活形態を考慮して、従来通り南北樺太を自由に移動して良いとされた。


しかし日本政府はこの取り決めを利用してウィルタ・ニヴフにソ連内の様子を探らせようと考えた。
南樺太内のウィルタ・ニヴフはオタスという地に集められ、許可なくオタスの外に出ることを禁じられた。


こうしてオタスでは陸軍特務機関によるスパイ訓練が行われた後、北樺太に送りこまれた。


このため、第二次大戦が終わった後、彼らはソ連から追放されて、本来の生活圏だった樺太に住むことを許されず、北海道の網走郊外に住むことになった。


彼らをスパイとして利用して、結局故郷を追われるような事態に至ったことについて、個人的に謝罪した元特務機関将校は居るが、日本政府は彼らが戸籍登録が行われておらず日本国籍を持っていなかったことを理由に、一切の賠償を拒否している。


現在サハリン及び沿海州には300人余りのウィルタが居るとみられ、一方北海道に住むウィルタは数十人程度。ニヴフはサハリン及び沿海州に2000人程度、北海道にはウィルタと同数程度と思われる。


60年代頃まではウィルタはオロッコ、ニヴフはギリヤークと呼ばれていた。いずれもアイヌが彼らを呼ぶ時の呼称だが、見下したニュアンスがあるとして70年代以降、それぞれウィルタ、ニヴフと呼ぶようになった。


かつて伊藤久男の歌でも知られた『オロチョンの火祭』のオロチョンは実はウィルタの事で、アムール川中流域に住むトゥングース系民族オロチョン族とは無関係。かつてロシア人がオロチョンとオロッコの区別がつかずどちらもオロチョンと呼んでいた誤りを一部の日本人も踏襲したという事と、オロチョンの方が語呂が良いという事で「オロチョンの火祭」と名付けられたようだ。
ただし、この祭りは網走市観光局の創案によるもので、もともとウィルタには火祭りという行事は無い。


戦時中にスパイとしてソ連領内で活動し、戦後は戦犯としてシベリアに抑留された後、北海道のウィルタ集落に送られて、ウィルタのリーダー的存在になった北川ゲンダーヌ氏が語ったことを田中了氏がまとめた『ゲンダーヌ』という本がある。(1978年、現代史出版会発行)
ウィルタについて語るなら最低限この本に書かれている程度のことは知っておいて欲しいと思う。


長くなったので、問題のスレに対する批判は次回にします。

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2011年8月 6日 (土)

流浪の旅

大正10年(1921年)に作られ、当時の艶歌師たちによって歌われた『流浪の旅』という歌がある。


 ☆流浪の旅
   作詞作曲
    宮島郁芳
    後藤紫雲


流れ流れて落ち行く先は
北はシベリア南はジャバよ
いずこの土地を墓所と定め
いずこの土地の土と終わらん


きのうは東今日は西と
流浪の旅はいつまで続く
果てなき海の沖の中なる
島にても良し永住の地欲し


思えば哀れ二八の春に
親のみ胸を離れ来てより
過ぎ来し方を思いて我は
遠き故郷のみ空ぞ恋し


(一部の歌詞が違う別ヴァージョンもある)


鶴田浩二が歌ったこの歌がYouTubeにアップされているせいか、この歌をアジアを股に掛けて放浪する気宇壮大な国士の歌であるなどというトンデモない解釈をしているネトウヨ君が居たのには呆れてしまった。


この歌は松永伍一の『日本の子守唄』に収められていて、からゆきさんを歌った歌であると明記されている。


三番の歌詞の「二八」とは二+八で数え十歳のこと。
「お月さんいくつ十三七つ」と同類の表現だ。
つまりこの歌の主人公は僅か数え十歳、小学校三、四年生相当の幼さで海外の売春宿に売られたと告白している。
もちろん数え十歳で売春が出来る訳は無く、初めは小間使いとして使われたのだろう。


貧しい家の娘が幼い身で親の家計を助けるために身売りされて行く…そんな悲惨な現実を歌ったこの歌が国士の歌と解釈されていようとは作者もあの世で苦笑しているだろう。

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«狩猟民族は残虐か?